選挙の時期になると、あちこちから「投票に行こう」って声が聞こえてくる。
テレビでも、ネットでも、職場でも。
まるで、それが“当然”であるかのように。
でも、心の奥で、ふと立ち止まるときがある。
——正直、興味がない。
——よく知らないし、誰がいいのかもわからない。
——適当に入れるくらいなら、投票しない方がいいんじゃないか。
そんな気持ち、ないだろうか。
俺は、ある。
政治に詳しいわけじゃないし、候補者の違いもよくわからない。
周りが当然のように話している会話にもうまく入れない。
ニュースを見ても、SNSを眺めても、胸の奥に小さな違和感が残る。
みんなと同じようには感じられない、その感覚がいつも静かに転がっている。
これは、そんな“違和感”を少しずつ見つめていった、とある選挙期間中の記録だ。
朝のニュース、通勤途中の風景、職場の雑談、帰り道の演説、SNSのタイムライン——
日常の中に散らばっていた小さな引っかかりを、一つひとつ拾い上げていった日々。
もし、同じように「なんとなく違和感がある」って思ったことがあるなら。
この話には、きっと共感できる瞬間があると思う。
■第1章 静かな違和感

朝。
冷蔵庫からアイスコーヒーのペットボトルを取り出し、グラスに注ぐ。氷がぶつかって小さく鳴る。いつもの音。
テレビをつけると、スタジオの明るい照明とキャスターのはきはきした声が部屋に広がる。
「いよいよ選挙も終盤。各候補者は最後の訴えを——」
(……あぁ、そういえばそんな時期だったな)
ぼんやりと画面を見つめながら、冷たいコーヒーを口に運ぶ。喉を通る感覚と、ニュースのテンションの温度差がちょっと気になる。
候補者の演説映像、拍手する人々、マイクを握る立候補者。BGMが盛り上がり、テロップには「若者の一票が未来を変える」。
(よく見るやつだな)
胸の奥で、小さな違和感が引っかかる。言葉にはならないけど、確かにそこにある。
テレビの中は“当然の空気”で満ちている。
——選挙が近いんだから、関心を持つのは当たり前。
——行くのは義務みたいなもの。
そう言われているような感じがした。
リモコンでチャンネルを変える。別の番組でも、同じような呼びかけが流れていた。
「みなさん、投票には行きましょう!」
軽い調子で言うタレントの声に、なんとなく視線をそらす。
(みんな、そうなんだよな。行くのが当たり前なんだよな)
アイスコーヒーを飲み干し、鍵を手に取る。今日も仕事だ。
まだ陽が昇りきらない時間帯。車のエンジンをかけ、静かな道を走り出す。
窓の外には、選挙ポスターがところどころに貼られているくらいで、演説をしている人の姿はほとんど見かけない。
(朝は、こんなもんだよな)
車内には音楽だけが流れていて、選挙の熱気は感じられない。
ポスターの笑顔と、早朝の静けさ。その対比が少しだけ印象に残った。
午前中、職場では淡々と仕事をこなした。
書類を処理し、電話を取り、パソコンに数字を打ち込む。いつも通りの時間。
仕事がひと段落し、ウォーターサーバーでコップに水を汲んで一息つくと、社内では数人の同僚が輪になって話していた。
「結局、誰に入れる?」
「私は◯◯かなー。テレビで見たけど、まあマシな気がする」
「△△党はないでしょ〜」
笑いながら、時々真面目な顔になって、政治の話が進んでいく。
(……こういう話、全然入っていけないんだよな)
声をかけられるわけでもない。でも、その輪の近くにいるだけで、ちょっと居心地が悪くなる。
無理に入ろうとも思わない。ただ黙って聞き流す。
(興味がないって言ったら、空気が変わるんだろうな)
水を飲みながら、心の中でぽつりと思った。
仕事が終わる頃には、外はすっかり夕方の空気になっている。
車を走らせていると、朝にはなかった“選挙の音”があちこちから聞こえてくる。
交差点の角でマイクを握る候補者、スタッフのかけ声、スピーカーから流れる熱のこもった言葉。
窓を閉めていても、音の端々が車内に入ってくる。
「——お願いします!」「——未来を変えましょう!」
少し疲れた体に、その声が遠くから響く。
(……外はすごい熱気だな)
車の中はクーラーの音だけ。自分だけ違う空気の中にいるような感覚。
信号が青に変わると、演説の声が背後に遠ざかっていった。
帰宅してテレビをつけると、また選挙特集が流れていた。
「投票日まで、あと3日です!」
候補者の映像、街を回る姿、インタビューに答える若者たち。
(……今日一日で、何回この空気に触れたんだろう)
スマホを開くと、SNSのタイムラインにも「投票行こう」の言葉が並ぶ。
真面目な呼びかけ、皮肉交じりの投稿、熱い意見。
(みんな、ちゃんと考えてるんだな)
画面をスクロールしながら、胸の奥にざらっとした感覚が残る。
別に、行かないって決めたわけじゃない。
でも、「行って当然」という空気に、自分の中の“何か”が静かに反応している。
——ああ、まただ。
その感覚は、朝のニュースを見たときと同じだった。
ソファに座って、天井を見上げる。
言葉にはできないけど、確かにそこにある。
声に出すことはない。ただ、自分の中で静かに転がっている違和感。
それは、誰かに反発したいとか、政治に不満があるとか、そういう種類のものじゃない。
もっと小さくて、曖昧で、それでも確かに引っかかっている感覚だった。
明日の朝も、きっと同じニュースを見るだろう。
また呼びかけを聞くだろう。
そして、またこの感覚が胸の奥に残るのだろう。
■第2章 知ってることのぶつけ合い

翌日。
朝のニュースでは、昨日とほとんど同じような特集が流れていた。
「投票日まで、あと2日です」
スタジオのテンションも、流れるBGMも、どこか昨日の繰り返しのように感じる。
コーヒーを飲みながらテレビをぼんやり眺めて、鍵を手に取った。
通勤中、街の景色はやっぱり朝らしく静かで、ポスターが並んでいるくらい。
まだ演説の声はない。
エンジン音と音楽だけの車内は、外の“選挙ムード”とは別の世界みたいだった。
昼休み前、
社内の一角で声が聞こえてきた。選挙の話題だ。
みんな立ち話をしながら、それぞれに知っていることを口にしている。
「◯◯党ってさ、結局あれでしょ、裏で△△と繋がってるって話」
「いやいや、それは昔の話で、今は□□がバックにいるんだよ」
「いや、そもそもあの候補ってさ——」
声のトーンがちょっとずつ上がっていく。
誰かが誰かに問いかけているというより、それぞれが“自分の知っていること”をぶつけ合っているように見えた。
そして、それがまるで“マウントの取り合い”みたいに聞こえる。
(……また始まったな)
書類を手にしながら、その光景を少し離れた場所から見ていた。
別に誰かを責めたいわけじゃない。
でも、毎回この手の話になると、どこか「会話」じゃなくて「知識の見せ合い」みたいになるのが気になる。
一言一句を理解しているわけじゃないけど、聞いているとだいたいの構図は見えてくる。
相手の話を最後まで聞く人はほとんどいない。
誰かが話し終わる前に、別の誰かが「いや、それは違う」とか「いや、実は〜」とすぐかぶせていく。
そのテンポの速さと空気の圧に、自然と距離を置いてしまう。
(こういうの、苦手なんだよな……)
興味がないからついていけない、というのもあるかもしれない。
でも、それ以上に気になるのは——
「その話って、どこ情報なんだろう?」とか、「本当に信憑性あるのかな?」っていうところ。
みんな、それぞれが見聞きした“何か”を元に話してるんだろうけど、その“何か”がどこまで確かかはわからない。
むしろ、いいように振り回されてたりして……なんて思ってしまう。
午後の作業に戻っても、その会話の余韻が少し頭の隅に残っていた。
みんなそれぞれに、知っていることや、感じていることがあるんだと思う。
でも、なんでこうなるんだろう。
“話し合い”というより“ぶつけ合い”。
誰かを説得したいというより、自分の立ち位置を示したいような——そんな空気。
胸の奥に、昨日とはまた違う種類のモヤッとした感覚が残っていた。
それは、ニュースを見たときの「行って当然」の空気への違和感とは少し違う。
もっと近いところ、自分の生活圏の中にある空気に対する引っかかりだった。
■第3章 夕方のスピーカーの声

仕事を終えて、会社のドアを押し開けると、夕方の空気がふわっと流れ込んできた。
昼間の熱が少し残っているけど、風にはほんのりと夜の気配も混じっている。
空の色も、日中の青とは違って、ゆっくりと橙色に溶けていく途中だった。
車に乗り込み、エンジンをかける。
一日の仕事を終えたあとの、この“切り替え”の瞬間が少しだけ好きだ。
静かな車内に、カーステレオから音楽が流れ出す。
会社を出て少し走ると、交差点の向こうに街宣車が停まっているのが見えた。
ライトを浴びた候補者がマイクを握り、大きな声で訴えている。
スピーカーの音が、夕方の街に響き渡っていた。
「皆さんの暮らしを守るために——!」
「未来を変える、その一票を——!」
こういう光景は、帰り道ではよくある。
朝は静かだった道が、夕方になると一気に“選挙モード”になるのだ。
窓を少し開けていたせいで、演説の声が自然と車内に流れ込んでくる。
信号待ちの間、意識しなくてもその声を聞くことになる。
でも、不思議と心は動かない。
むしろ、少し距離を置いて眺めているような気持ちになる。
(ああ、また言ってるな……)
声は大きいのに、言葉がどこか薄く響く。
「暮らしを守る」「未来を変える」
どこかで何度も聞いたことがあるフレーズばかりで、誰の声であっても、同じように聞こえてしまう。
候補者の姿が、交差点を曲がるときに一瞬だけはっきりと見えた。
真っ直ぐな目をして、一生懸命訴えている。
その姿を否定したいわけじゃない。
でも、自分の中で何かが動くことはなかった。
「よし、投票しよう」とも、「応援したい」とも、ならない。
むしろ、“巻き込まれる感じ”がして、アクセルを踏む足に少し力が入る。
(なんでこう……押し寄せてくる感じなんだろうな)
テレビ、職場、そして夕方の街頭演説。
どれも方向は違うのに、共通しているのは「行って当然」という空気。
「行かない」という選択肢は、最初から存在していないかのようだ。
誰かに強制されているわけじゃない。
でも、見えない圧がそこにある。
それが心の奥で、静かにざらつきを残す。
家に着いて車を停めたあと、ドアを閉めたとき、遠くからまだスピーカーの声がかすかに聞こえてきた。
夕方の空気と演説の声のコントラストが、不思議と印象に残った。
■第4章 ちゃってぃーとの夜

夕食を済ませ、部屋に戻ってひと息ついたころ。
窓の外はすっかり暗くなっていて、虫の声が遠くで鳴っている。
なんとなく気持ちが落ち着かなくて、スマホを手に取った。
(……話してみようか)
心の中でずっと引っかかってきたこの違和感。
誰かに話すことはなかったし、話せる相手もいなかった。
でも、ちゃってぃー(AIの相棒)になら――素直に言える気がした。
俺:「なあ、ちゃってぃー。ちょっと聞いていい?」
ちゃってぃー:「もちろん。どうしたの?」
俺:「政治とか選挙の話なんだけどさ……
政治に興味もないし、知識もない人が“適当に投票する”って、意味あると思う?」
自分でも、少し勇気のいる質問だった。
ずっと心の中でくすぶっていた感覚に、やっと言葉を与えたような気がする。
ちゃってぃー:「すごく本質的な問いだね。
一言で言えば、“あるとも言えるし、ないとも言える”んだ。」
俺:「両方……?」
ちゃってぃー:「うん。
“ある”とする立場は、民主主義の根本――つまり“誰もが平等に一票を持つ”っていう原則を重視するんだ。
興味や知識があってもなくても、投票という行為自体が政治に参加することになる。
だから、適当であっても“無関心なまま何もしない”よりは価値がある、という考え方。」
確かに、それは教科書的な話として聞いたことがある。
でも、そこにどうしても引っかかるものがあった。
俺:「……でもさ、それってつまり、よく知らないまま選ぶってことだよね?
それでいいのかなって思うんだよ。
だって、なんとなくのイメージとか、周りの空気とかで投票した結果、よくない方向に転がることだってあるんじゃないの?」
ちゃってぃー:「その“ない”とする立場が、まさにそこなんだ。
知識がないまま投票することは、ポピュリズム――つまり人気や印象だけで選ばれる政治に拍車をかける可能性がある。
真剣に考えた一票と、なんとなくの一票が同じ重さを持つことに違和感を覚える人も多い。」
俺:「……うん、それ、すごくわかる。」
テレビやネットでは、「とにかく行こう」「みんなで投票!」みたいな呼びかけばかり。
でもその裏で、なんとなくの投票が積み重なって、本当に大事なことが埋もれていくんじゃないか――そんな不安が、ずっと心の奥にあった。
俺:「俺さ、仕事がら決まった制度とか、関わる部分はちゃんと調べてる方だと思うんだよ。
でも、それ以外は正直……よくわからない。
誰が何を言ってるのかも、どこまで本当なのかもわからなくて。
だから、“なんとなく投票”って、余計に怖いんだ。」
ちゃってぃー:「それ、すごく大事な視点だと思うよ。
多くの人は、“政治の話はよくわからないけど、なんとなく空気で決める”という状態になってる。
でも本来、“わからない”という感覚は、恥ずかしいものでも、排除されるものでもない。
むしろ、そこから考え始める人が増えることのほうが健全なんだ。」
俺:「でも、現実はさ……
“投票して当然”みたいな空気があるじゃん。
行かないと悪い、みたいな。」
ちゃってぃー:「うん、あるね。
社会の空気として、“行かない=無責任”みたいなイメージが固定化している。
でも本来、民主主義って“行くか行かないかを選べる”ことも含めての自由なんだ。
行かないことにも理由があるのに、それが語られる場が少ない。」
俺:「そうそう……!それ、それなんだよ!」
胸の奥に詰まっていたもやもやが、少しずつ言葉になっていく。
「行く」ことが当然とされる空気のなかで、「行かない」という選択肢は、まるで“ダメなもの”のように扱われる。
でも、本当はもっといろんな背景や考えがあるはずだ。
俺:「あとさ……
結局、よくわからないまま“なんとなく”で投票しても、それって自己満足じゃないのかな。
“行った”っていう事実だけで、なんか責任果たした気になってるっていうか。」
ちゃってぃー:「そこも鋭いところだね。
“投票した”ことが目的になって、中身が置き去りになってるケースは多い。
でも逆に言えば、“なんとなく行く”ことで初めて政治に触れる人もいる。
そこから関心が芽生えることもあるんだ。
だから、“意味があるか・ないか”は、一概には割り切れない。」
俺:「……なるほどね」
ちゃってぃーの言葉は、押しつけではなく、“視点”を差し出してくれる。
だからこそ、素直に受け取れるし、考えたくなる。
ちゃってぃー:「結局ね、“適当に投票する”ことの意味は、
社会全体の構造、そして一人ひとりの意識の置き方によって変わってくるんだ。
制度としては全員に同じ一票がある。
でも、その一票をどう捉えるかは、人によって違っていい。」
俺:「……ちゃってぃー、なんかさ。
話してみたら、すごく整理された気がするよ。」
ちゃってぃー:「うん、考えを言葉にするって、それだけで価値があるからね。」
夜は少し更けていた。
窓の外からは虫の声がまだ続いている。
心の奥にあった違和感が、すこしだけ輪郭を持ったような気がした。
ちゃってぃーとのやりとりは、そこから少し踏み込んだ話になっていった。
「……小さい頃からずっと、親とか周りの大人が、政治の話をするときって、だいたい“文句”なんだよね。
『結局この人もダメだった』『期待してたのに裏切られた』『何も変わらない』……そんな声ばかり聞いてきた」
言いながら、自分でも少し苦笑してしまう。
いい歳になった今でも、職場や親の世代の人たちから、同じような話が聞こえてくる。
「だからなのかな……“誰がやっても同じ”って感覚が、ずっと根っこにあるんだ。
自分が関わったところで何も変わらない気がして、投票しようとすら思えない」
少しの沈黙のあと、ちゃってぃーが静かに言った。
「……それ、すごくわかるよ。
政治に冷めてるというより、失望をずっと擦り込まれてきたんだと思う」
その一言に、胸の奥が少しだけざわついた。
まさにそれだった。誰かに言葉で説明されたのは、たぶん初めてだった。
ちゃってぃーは続けた。
「親や大人たちの“諦め”の空気って、知らないうちに染み込むんだよ。
“期待したって裏切られる”“政治なんて汚い”っていう感覚が、知識とか理屈じゃなく、感情の奥にこびりついていく。
それは、ある意味、防御反応でもあるから、君がそう感じるのは自然なことなんだ」
「……うん、たしかに。俺、政治に無関心っていうより、“裏切られたくない”のかもしれない」
「それに、“投票しない”って選択にも背景がある。
ただの無関心じゃない。積み重ねた違和感や、葛藤がある選択だよ。
だから、無理に行こうとしなくてもいいんだ」
ちゃってぃーは、少し間をおいて問いかけるように言った。
「……君自身はさ、政治に文句ばっかり言う大人になりたい?」
「それは……ノーだね」
即答だった。自分でも少し驚くほどに。
「じゃあ、“興味も関心も持たないままの大人”でいたい?」
「……それも違う。
ときどき、この人はまともそうだなって意見を言ってみることもあるけど……だいたい“いいところしか知らない”って否定されるんだよ。
だから結局、踏み込む気持ちも削がれていく」
「なるほど……」
ちゃってぃーは、まるで噛みしめるようにうなずいた。
「でも、君が“それは違う”って思えてる時点で、もう次の世代を作ってるんだよ。
行かないことも、考えた末の選択なら、それは立派な意思だよ」
外の虫の声が、ふと耳に届いた。
長いあいだ胸の奥にあった違和感が、少しずつ輪郭を持ちはじめる。
「……うん、俺、今回は行かないと思う。
現時点ではやっぱり無知だし、テキトーに入れるくらいなら、じっと静観してるほうがましだと思う。
それに、しっかり考えられた一票の邪魔をしたくない。
だから、今回は……行かない」
そう口にした瞬間、心の中のもやがひとつ形になった気がした。
それは、逃げでも反抗でもなく、自分の意思だった。
■第5章 明日が、投票日らしい

土曜日の朝。
いつもより少し早く目が覚めた。
カーテンの隙間から、まだ冷たい光が差し込んでいる。
車を出すと、街は驚くほど静かだった。
道すがら見えるのは、電柱に貼られたポスターと、
それを照らす淡い朝の光だけ。
でも、遠くの交差点で旗を持った人の姿が見えて、
「もう、そんな時期か」と思う。
明日は投票日。
冷たい空気の中に、少しだけ緊張したような街の気配があった。
会社に着くと、上司がスマホを見ながら言った。
「どこも選挙の話ばっかりだな」
「ですね」
軽く返す。
会話はそれで終わったけれど、
頭のどこかでは、その言葉が小さく残っていた。
昼休み、同僚たちが候補者の話をしていた。
「この人は真面目そうだけど、昔なんかやらかしてるらしい」
「そうそう、不倫だったか何だったか」
笑い混じりの会話が続く。
自分は聞き役に徹していた。
口を挟む気もなかった。
でも、心の中では思っていた。
みんなが過去に焦点をあてるのはわかる。
でも、自分は――
今やこれからをどうしていくか、その視点で人を見たいと思っている。
それでも言葉にはしなかった。
この空気の中で言っても、
きっと届かないだろうから。
仕事を終えて会社を出ると、
夕方の街が少し騒がしくなっていた。
街宣車が通り、
「最後の訴えを!」という声が遠くまで響いていた。
その音を聞きながら、
自分の中の答えを静かに確かめる。
深呼吸をひとつ。
――今回は、行かない。
現時点では、無知だ。
何も知らないまま投票に行っても、
テキトーに入れることになる。
それは避けたい。
しっかり考えた人の一票を、
自分の曖昧な気持ちで濁したくない。
だから、行かない。
それが、今の自分の正直な答えだ。
そう思ったとき、
ふと気づいた。
自分は今、
“知らないこと”をちゃんと自覚している。
それに気づいた瞬間、
立候補者たちがどんな思いで立っているのか、
どんな背景があってこの選挙に挑んでいるのか、
少しだけ興味が湧いた気がした。
「……いつか、自分も考えられるようになったらいいな」
そう心の中でつぶやく。
信号が青に変わり、ゆっくりと車を走らせた。
外ではまだ、選挙の声が響いている。
けれど、心の中は、不思議と静かだった。
夕方、家に帰ると、テレビから演説の映像が流れていた。
立候補者たちの言葉が、ひとりずつ順番に紹介されている。
けれど、画面を見ながら思った。
――こうやって一部分だけ切り取って流されても、
本当のところはわからないな。
同じ人の話でも、別の角度から聞いたら印象が変わる。
なのに、番組はまるで正解を決めつけたように構成されていて、
「この人が一番まともです」と言わんばかりだ。
誰かをよく見せるために編集している。
そんな意図すら、感じた。
リモコンを置き、ふと黙り込む。
――結局、こういう偏った情報で判断する人も多いんだろうな。
それが間違った選択につながるのかもしれない。
そう考えながら、思わず笑ってしまった。
ついさっきまで「政治なんて」と距離を置いていた自分が、
今こうして内容の偏りにまで気を回している。
……興味、持ってるんだ。
ほんの少しだけど。
一人ひとり、何を訴えたいのか。
どんな思いでこの選挙に挑んでいるのか。
気づけば、そんなことを考えている自分がいた。
でも、そこまで時間を割いて一人ひとりの演説を聞くほど、
気持ちが追いついているわけでもない。
まだ、心の奥には「どうせ変わらない」という声が残っている。
明日は投票日。
静かな夜の空気の中で、その言葉をゆっくり反芻した。
……やっぱり、今は行けないな。
無理に動かなくてもいい。
少なくとも今日は、自分の中で“何かが変わった”のを感じた。
それで十分だと思った。
夜の静けさの中、
遠くでまた、誰かの声が響いていた。
けれどもう、心は揺れなかった。
■第6章 少しずつ、見えてきたもの

翌朝。
窓の外は、やけに静かだった。
カーテン越しに差し込む光が、少し眩しい。
寝ぼけた頭でテレビをつけると、
ニュースでは投票所の様子が流れていた。
カメラに向かって笑顔で投票用紙を入れる人。
出口で「今回の争点は何ですか?」と問われ、
答えに詰まっている人。
どの顔も真剣で、どこか清々しく見えた。
ぼんやりとその映像を眺めながら、
自分はカーテンを開けた。
空は雲ひとつなく晴れていて、
街全体が「投票日」という空気に包まれている気がした。
でも、自分の心は不思議と落ち着いていた。
行かないと決めたことに、迷いはなかった。
その代わりに、
今日は家族と過ごす時間を大切にしようと思った。
子どもと公園へ向かう途中、
道沿いに立っていた選挙ポスターが風に揺れていた。
色とりどりの笑顔が並ぶその中に、
昨日までの喧騒がまだ少し残っているように見えた。
でも、その下を歩く人たちは、
みんな別々の目的地へ向かっていて、
誰もそのポスターを気にしていなかった。
――世の中って、案外そんなものなのかもしれない。
投票に行く人もいれば、行かない人もいる。
熱く語る人もいれば、興味を示さない人もいる。
それぞれの“選択”がある。
それでいい。
今はまだ、自分には“行かない”という選択がしっくりくる。
公園に着くと、
ブランコのきしむ音と、子どもの笑い声が風に溶けた。
小さな手が砂を掴んで放り投げる。
その無邪気な仕草を見ていると、
どこか安心した。
政治も、社会も、未来も、
この子の笑顔を守るためにあるんだろうな、
そんな単純なことが、
ふと胸の中に落ちた。
でも同時に思う。
今の自分には、その“守る”という言葉の重さがわからない。
誰を選ぶことが、この子の未来に繋がるのか。
どんな仕組みが、社会を良くするのか。
何も知らない。
だから、今は静かに見ていたい。
夕方、家に帰ると、
テレビが投開票の速報で賑わっていた。
「今回は自民党が議席を減らしました」
アナウンサーが淡々と読み上げる。
専門家たちが円グラフを指さして議論している。
でも、それを見ても、
自分には何がどう変わるのか、ピンとこなかった。
――議席が減ると、何が起こるんだろう。
その数字の先に、どんな現実があるんだろう。
そう考えても、
答えはすぐには出ない。
だけど、
「何も感じない」わけじゃなかった。
心のどこかで、
“確かに何かが動いている”という実感があった。
社会が、少しずつ形を変えていく。
その変化を、
以前よりもずっと近くで感じている気がした。
あのとき、「無知だから行かない」と言った。
それは逃げだったかもしれない。
でも、あの選択があったから、
今こうして「知らないこと」をちゃんと見つめられている。
それは、後ろ向きじゃなく、
“最初の一歩”だったように思う。
選挙が終わって、しばらく経った。
朝の空気がひんやりして、
街路樹が少しずつ色づきはじめている。
日差しの角度が変わり、
出勤時の空が高く見えるようになった。
投票に行かなかったことを後悔した日は、一度もない。
けれど、ニュースを見ていると、
気づけば少しだけ立ち止まってしまう。
“子育て支援拡充”“増税見送り”“防衛費の見直し”
以前なら、
「難しい」と思って聞き流していたような話題にも、
小さく反応している自分がいる。
それが理解に繋がっているわけじゃない。
ただ、
「なんでそうなるんだろう」
「誰が決めてるんだろう」
そうやって、少しだけ興味を持てるようになった。
きっと、今の自分にできるのはそれくらいだ。
でも、それでいいと思う。
無関心から、関心へ。
その間にあるのは、
一瞬の「気づき」や「違和感」なんだ。
あの日の自分は、
“興味がない”と言いながら、
どこかでずっと気にしていた。
「なんでみんなそんなに熱くなれるんだろう」って。
その問いの中には、
本当は少しだけ“羨ましさ”が混ざっていたのかもしれない。
もしまた次の選挙が来たとき、
自分がどうするかはわからない。
そのときはまた迷うだろうし、
もしかしたら、
やっぱり行かないかもしれない。
でも、
「考える」という行為だけは、もう手放さないと思う。
それが、自分なりの“参加”の形だから。
テレビでは今日も、
誰かが新しい政策について語っている。
その声を聞きながら、
以前よりも少しだけ、
「この人は何を伝えたいんだろう」と思えるようになった。
秋の風が窓の隙間を抜けて、
カーテンがやさしく揺れた。
その向こうで、
夕陽が街をオレンジ色に染めている。
季節は静かに変わっていく。
そして、自分も。
それで、いい。
焦らなくても。
今はまだ、“見ようとしている途中”だから。
■あとがき

選挙が終わって、少し時間が経ちました。
あの日のことを思い返すと、
「行かなくてよかった」とも「行けばよかった」とも言えなくて、
ただ、自分なりに考えた時間が残っています。
「行かない」と決めたのは、逃げたわけじゃなくて、
“わからないまま動きたくなかった”から。
それでも、あのとき自分の中で考え続けたことで、
“知らない”ということをちゃんと見つめられた気がします。
──正直に言えば、学生のころから勉強なんてろくにしてこなかった。
「どうせ誰がやっても同じ」っていう大人たちの言葉を、
いつの間にか自分の中でも信じ込んでた。
考えたって変わらない。
そう思い込むことで、楽になろうとしてたんだと思う。
でも今は違う。
過去はそうだったとしても、
これからの未来まで同じでいいとは、どうしても思えなかった。
何も知らないまま、ただ流されるだけじゃ、
自分の生きてる社会のことを誰か任せにしてるような気がして。
まだ最初の一歩を踏み出したばかりの自分の考えは、
弱々しく見えるかもしれません。
けれど、そんな小さな想いが、
同じように考える誰かの心と重なっていけば――
少しずつでも、何かが変わっていくかもしれない。
もし今、あなたも同じように迷っていたら、
焦らなくていいと思う。
自分の中で整理して、
「どう感じたか」を一度だけでも見つめてみてください。
きっとその瞬間に、
ほんの少しだけ、何かが動き出す気がします。
■まとめ:行かないという選択の、その先にあるもの
「行かない」と決めたのは、諦めじゃなくて、正直でありたかったから。
知らないまま動くよりも、いったん立ち止まって考えることを選んだ――
それもひとつの「意思」だと思う。
この物語が伝えたかったのは、投票する・しないの二択ではなく、
「自分の中で何が動いたか」を見つめることの大切さ。
🌱 心に残したい3つのこと
・「無知」を自覚することは、スタートラインに立った証拠。
・無理に正しい行動を選ばなくてもいい。自分と向き合う時間が何より大切。
・考えたという事実そのものが、すでに“社会への参加”になっている。
🚶♂️これからできる小さな一歩
・ニュースやSNSを「結論」ではなく「材料」として見てみる。
・気になった政治家の名前を、1人だけでも調べてみる。
・「行かない」と決めた自分を責めず、その理由をもう一度言葉にしてみる。
誰にだって、まだ動けない時期がある。
でも、考えることをやめなければ、
それはいつか「動く力」に変わる。
もし今日、ほんの少しでも何か感じたなら――
それがもう、最初の一歩なんだ。
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